blog-chronicle〈ブロニクル〉

あちこちのブログ、HPに書きちらかしたエントリを一本化。

『桐島、部活やめるってよ』

 ううむ……。あえて予備知識なしに観始めたのだが、なかなか話がみえてこない。
 
 冒頭からなにげない高校生活の断片がひたすら重ねられていく。バレー、バトミントン、吹奏楽といった部活の風景のオンパレード。大きなドラマも起きないけどかえってそれがリアルでもあるのだが。
 
 まず登場人物ひとりひとりの区別がつかない(個人的に)。
 日本映画専門チャンネルはセリフと一緒に役名が字幕で出るので助かったが、それがないとちょっとキツかったろう。
 すぐに顔がわかったのは橋本愛東出昌大ぐらいだが、どちらもストーリーの中心ではなさそうだ。群像劇なので誰が主役ってのはとくにないのかもしれんが。
 
 メインのストーリーがつかめず五里霧中のままに映画は進行。
 そういえばとあるライター講座を受講したとき、講師が
「書き出しの1行目で読み手の気持ちをつかめ」みたいなことをいってたのを思いだした。
 それに従えば、この作品は失敗作ということになるかもしれない。
 でも、観ているうちに少しずつ物語が立ち上がってくる感もけして悪くない。
 
 よくテレビでドラマや映画を見てて「あ、だいたいこういう話か」と分かってしまうと急に興味を失ってチャンネルを変えてしまったりする。そういう意味ではこの作品はなかなか全体像が見えてこず、かなりのとこまでこちらの興味を引っ張り続けるのであった。
 まあ原作は小説すばる新人賞受賞作だしってことで話みえないけどちょっと辛抱して見続ける。
 
 徐々に登場人物間にほのかな恋心も生まれはじめて、男子高出身の僕には共学ってこういう雰囲気なんだーと自分の体験できなかった高校生活をのぞき見るようであった。
 
 だけどここに描かれてる高校生たちの日常には光も影もない感じだ。
 昔は「青春の光と影」なんておきまりのフレーズがやたらあったけど。ここでは「青春の情熱」的なものは映画部の生徒たちが撮った作品のタイトルのように失笑の対象だ。アツくもなくクールでもない、このグレーな感じがいまの青春なのか。
 
 そんなオヤジな僕にでもストレートに面白く感じられたのは映画部のシークエンス。中盤で神木隆之が観ている映画が『鉄男』。こんな昔のカルト作品、上映してる劇場があったら行ってみたいもんだ。ついでに橋本愛みたいな女の子と映画についてマニアックに語り合ってみたい。
 
 しだいに高まっていく高校生たちの恋心。でもけしてそれが成就するとは限らない。そうそう、こんな思いは僕らもさんざんしてきた。
 好きな子ができて毎日に張り合いが生まれ、勉学に(あるいは仕事に)頑張ってたら、実はその子に彼氏がいたことが判明、自分の三枚目ぶりを思い知らされたときのみじめさや、失恋のショックを隠しつつ表向きは平然さを装ってそれまでと同じ生活を続けなければならないつらさを思い出させました。
 
 原作は読んでないのだが、短編連作集ということだ。道理で映画もいくつかのエピソードが重なり合ってる印象だったんだな。
 (ネタバレ)かんじんの桐島は生徒たちの会話にのぼるだけで結局最後まで出てこない。『ゴドーを待ちながら』を思わせる設定だ。
 これに何か深い意味を持たせることはいくらでもできるだろうが、もしかしたらタイトルにだまされただけで、桐島が部活をやめることは実はこの話のメインテーマでもなんでもないのかもしれない。
 小説が出版されるにあたり編集側が「ひとつ、インパクトのある題名を……」みたいな感じでつけたってこともあるかも。
 
 
 なんだかヘナチョコな感想になってしまった。いずれ小説のほうもきちんと読んでみたいですね。

一寸の虫にも… しくじり先生が教師生命をかけた!

 数日前の深夜、スカパー!チャンネルNECOで、2012年にネット配信で公開されたドラマ『悪の教典―序章―』を放映していた。

 表面上は人格者に見える教師が学校の支配者となっていくサイコサスペンス。原作は第1回山田風太郎賞を受賞したほか直木賞吉川英治新人賞、本屋大賞などにノミネートされた貴志祐介の長編小説で同時期に映画化されている。  ネット配信のドラマは映画版の前日譚にあたる部分。映画もドラマも三池崇史が監督し、主人公のエリートサラリーマン上がりの中学教師を伊藤英明が演じるほか、ドラマ版では中越典子岩松了などが共演している。

 この物語、人間的にどうかと思うような先生たちのオンパレードなのだが、なかでも吹越満演じる教師の陰湿さはダントツだ。性格のせいか同僚教師たちからは敬遠され、生徒にもバカにされているようだ。

 ドラマを見ているうちに、自分の中学時代のある先生を思い出した。

 その先生、吹越が演じた教師のような根暗キャラとはちがうのだが、どうも性格的に人にものを教えることに向いてない感じの人だった。

 とにかく「あの先生の授業はよくわからない」というのが生徒のあいだで定評になっていて、僕自身は代行でその先生が来た2,3回しか直接教わったことはなかったが、やっぱりウワサどおりの、う~~んと首をかしげてしまうような授業だった。

 その先生自身、自分の教え方に自信がないらしく、授業を進めながら途中何度も生徒たちに「わかる? わかる?」と問いかけるのだが、そのたびにいっせいに「わかんないよ~」と大ブーイングを受け意気消沈していた。いい人なんだけど性格的にナイーブだったのだろう。とにかく生徒たちからは完全にナメられてる感じで、いまでいえばスクールカースト最下位、みたいな先生だった。

 さて中3になり進路を決めるシーズンがきて、三者面談だのなんだの周囲があわただしい雰囲気になってきたころ、ひょんなウワサが耳に入ってきた。

 例の小心先生が、担任クラスの生徒たちの自分に対する日頃の態度に、堪忍袋の緒が切れてついに爆発してしまい、生徒たちに向かって「お前らの内申書は最低の評価にしてやる!」とかなんとか暴言を吐いたらしい。

 そのことがPTAでも問題となり、教師にあるまじき態度ということでその先生は翌年だか教職を辞め、その後は実家で農業を手伝っているという話をきいた。

 たしかに中学生のガキ相手にマジ切れし、権威をタテに脅しをかけるなんて教育者としては失格かもしれない。そのときは先生の方に非があるという結論で終わってしまったわけだが、いま考えると当時のPTAに代表される世間の目が必ずしも正しかったとはいえない気がする。

 いくら教え方が下手だからといって人間的にバカにして見下しちゃまずいだろう。相手をナメてかかっていると手ひどいしっぺ返しを食らうこともあるのだ。

 暴言を受けた生徒たちはあのとき、勉強なんかよりもっと重要なことを教わったのかもしれない。

 けして教え方がうまいとは言えない先生だったが、最後に体を張って教訓を伝えたのだ。おとなしく見える人でも内心どう感じているかは分からない。甘く見たらあかんぜよと。

 むかしのことわざで言うなら一寸の虫にも五分の魂。暖かい季節になっていろんな虫が出てきますが、個人的にはなかなか殺せません。

マジックリアリズムの試み

 4/1が終わり4/2が始まるまでの「あわい」のような時間帯。限界まで尿が溜まり仕方なくトイレへ。自分の意志ではないが起きだすことにする。何かしなければという意欲も切迫感もないが。がんばってみたところでタカが知れてる。

 昨日はそれほど疲れていなかったせいか夜もずっと起きてたが、これといったこともせずだらだらツイッター眺めたりひたすらテレビの難病と闘う人たちのスペシャルを見ていた。わりと素直に同情しながら見てしまった。

 疲れていなかったわりに深夜が近づくころ自然に眠くなる。まあこれが自然な体のリズムというものだろう。生まれて食べて眠って死ぬ。本来人間はそれだけでいいのかもしれない。あと子孫を残せば。あとの文化や文明、金儲けみたいなことは、みなプラスアルファというか、おまけみたいなものなんだろう生きるうえで。俺はそのおまけのほうばかり重要視しすぎた感じだ。もっと本質的なことを見失ってると自分でも思う。

 この3枚小説のきっかけとなった『書きあぐねている人のための小説入門』を書いた保坂和志の本『明け方の猫』の二つ目に収録されている短編「揺籃」を読む。現在と過去、真実と虚構がシームレスに入り混じる。話は逸脱を繰り返す。読んだことはないけれどマジックリアリズムってこういう感じだろうか。この3枚小説もこんなテイストでやってみようかと思った。ストーリーもヤマもオチもなくだらだらと書き連ねるこの文章に相応しい形式かもしれない。

 4月に入った。新学期だの新入社だのとニュースがひたすら叫びたてる。べつにこっちは関係ないのだけれど。日々なんの進展もなく停滞した日常を送っていると感じる人間には、不快な、面白くないものだ。ニートとか引きこもりとか失業中とか、そういう連中を通り魔のような凶行へはしらせる引き金の役を果たしそうな報道だ。

 高揚した調子でカメラに向かって新社会人の抱負を語る真新しいスーツの若者。将来彼のパートナーに約束されていそうなOLスタイルの娘。アオキのスーツのCMに出てるモデルのコピーがそこらじゅうに増殖する。

 「揺籃」タッチはいざやってみると案外むずかしい。一本の糸につながって次々とエピソードが出てくるようなものではない。やはり小説とは産みの苦しみにウンウン唸りながら書かなければならないもののようだ。自由連想的に勝手に手が動いて自動書記のように文字が並んでいく。そういうのは書いてて気持ちいい。読む側はつまらないらしいけど。

 自由に書く快感は米満講座でだいぶ失われた。あの講座で教えることがただひとつの正解ではない。一文33字を守ってる文章なんて世の中にどれだけあるか。それはちゃんとした文章が書けないシロートさんを矯正するギブスのようなものであって。しろーとはびこって困るよなー、長いこと書いてきた人間には。ここらで少しフルイにかけないと。ってな考えなんだろう米満も。おいおい一緒にされちゃ困るぜ。むしろヤツの教えを反面教師的に受け止めてそこから自分のスタイルを確立すべきかもしれない。受講した人間で将来にわたって一文33字を続けるヤツがどれだけいると思う? かえってそんなやつはダメだと思うけど。そういう俺自身だって目クソ鼻クソ、どんぐりの背競べというやつか。まさにリアルな『ハウ・トゥ・イー・ア・ライター』だ。あの作品も虚実入りまぜた俺にしては実験的試みであったが。完成をみなかった。むしろこうした3枚小説みたいなトレーニングを積んだうえでああいった手法に挑戦すればよかったのかもしれない。虚実おりまぜる修練を積んだあとで。

 とにかく必要なのは発表の場、書いたものを金に換えられる市場的機能を持つ場だ。市場では金品の交換というコミュニケーションが行われなければならない。一方的にネットに書いているだけではモノローグ同然だ。

 そういうコミュニケーションの場へ誰も入れてくれないようなら自分で作る。口だけじゃなくやってみる。小説が運動なら書いたものを世に出すための運動も必要だ。手をこまねいてるうちにずいぶん時間をムダにしてしまった。

 マジックリアリズムはひとつの可能性だ。現在。そこから触発される過去。いつか見た映画の一場面。誰かのいった言葉。それらが一緒くたに、、完全に融合もせず、ひとつの塊りをなしている状態。それが自分というものかもしれない。

『ハウ・トゥ・ビー・ア・ライター』のような米満講座

 ほとんど見切りをつけている米満講座だが、目の前にチャンスをぶら下げられるとまたやってみようかという気持ちが頭をもたげてくるから困ったもんだ俺も。これって実はチャンスなんかじゃなくてもっと悪いものかもしれなかったりして。

 まあこれがおそらくラストチャンスのエキレビオーデション。エキレビに書きたいネタをひたすら出し続けるという課題。今度は米満だけでなくアライユキコというエキレビ編集長も目を通すので、いやがらせみたいな根拠のあいまいなダメ出しばかりでもないことを祈る。

 午前中2本ネタを出した。書きたい内容と本文で使うフレーズいくつか。この形式はいままでよりもネタを上げやすい。以前はネタを出すと「もっと具体的に」とか具体的に書けば「もっと短く」とかイチャモンめいた返答を受けたが。じゃ、ちゃんと決めろよって感じで。

 あとトヨタの企業サイトを請け負っている編プロの人からも連絡もらった。好感触な雰囲気。車について書くというオーダー。それほど車には詳しくないんだが、ここは勝負どこだと思ってがんばりたい。いったんコネができてしまえばチョロいような気もする。今まではずっと門前払いくわされてたようなもんだ。むろん正当な評価さえされれば米満本人には格別悪感情もない。でも逆に米満の評価が正しかったらどうしよう。

 歯医者のPに駐めた車の中。強い風が車体を揺らしている。風の音の合い間から「夕焼け小焼け」のメロディーが流れてくる。1日は終わりにさしかかっている。今日もドタバタ右往左往したわりに徒労感の強い1日だった。事務へ行ったらガキ相手の水泳教室かなんかでプールは入れずシャワーを浴びただけ。コンビニのイートインの隅っこでとなりのおばさんの雑談に身を縮めながら発表されるかどうかもわからない文章を書き続ける。なんだか講座に来てる連中のなかで俺がいちばん遅れをとった感じだな。先陣きってとびだしたわりに。米満の野郎のえこひいきのおかげで意図的に差をつけられた。仲間うちで固まって、ついてこないヤツはそれっきりな感じだ。

 行き当たりばったりに書き進めてきた3枚小説だが、米満講座のてんまつを書くだけで小説のテーマになりそうな感じもある。『ハウ・トゥ・ビー・ア・ライター』という作家志望フリーターの鬱屈した日常をテーマにした私小説っぽい話を半分近く書きかけたことがある。米満講座をめぐる一部始終はそのままあの作品の中で使えそうだ。現実とフィクションがリンクしてる。あれも中断するには惜しい小説だったな。書いてくうちに方向性があやふやになってしまった。自分としては実験的試みだったので、書いてて迷いが絶えなかった。少し距離をおいて客観的に見てみれば、書くべき本質が一目瞭然となるかもしれない。完成はしていないが重要なキャリアの一部といえる作品だ。ハードルを低くして安易に完成させないほうがいいようにも思う。

 混沌とした自室へ戻る。ここ2,3日続けて入っているので少しづつ整理はついてきてる感じだ。大がかりな配置換えもおこなった。

 なにか、自分の思考構造が一瞥で見てとれるような図をつくりたい。自分がどんな人間か、これまで何をしてきたのか、何ができるのか。些末なバーツではなく本質的な根幹を見つめたい。

 スカパーをつけた。さだまさしが手放しで中国を絶賛する『長江』。この頃はまだ中国も今より良かったのかもしれない。今は資本主義に「毒された」。まあ日本も同じなんだけど。そしてそれを忌避するつもりもない。資本主義の中でうまくやるにこしたことはない。

 部屋を片付けながら、何度もイケアへ行ってみようかと考える。しかし、そのたびにさして必要な家具もないと」気づいて断念する。まずは今あるものを。使えるものは使って、使えないものは捨てて、少しでも処分、整理していくことだろう。ま、それらが俺が今までの50年という半生と引き換えに手に入れてきたもの。みな何かしら意味があって手元に集まってきたものだ。利用しないことはない。すべて俺の人生の一部。さして愛着も感じられないが。

 8時前。母たちが帰ってくる。洋間でナイター観戦。中途半端な夕食。昼泳げなかったので夜事務へ行くつもりでいたが一度帰宅して落ち着いてしまうとダメだ。数年前にくらべて確実に体力は落ちている。自分の中の活力が失われている。

3/30「マックで情景描写」

 午前中、洋間整理など精力的に動いても、午後まで集中力やエネルギーがもたない。昼メシ食ったあとひと眠り。まあそのへんはいつものことで想定内。とりあえず原稿書きに近所の図書館へ。そのまま家にいてもよかったんだが。以前は終日家にいるなんてありえなかったんだけどな。昔にくらべ家の居心地が悪くなくなったのかもしれない。

 図書館はパソコンのキーボードをたたく連中が並んでて集中しにくい。まあ俺もその一人だが。向かいのやつが無意味にマウスをカチカチ鳴らし続ける。ときどきでかい声でくしゃみする。声をださないでしろよ。そんなツッコミを心の中で入れながら何食わぬ顔でPCをたたき続けるのはひどくくたびれる。

 外出したって原稿書いてるだけだから楽しくもない。帰宅する途中、国道沿いのマックへ寄る。真横からななめにさしこんでくる西日。向かいのテーブルで座席に寝転がってスマホやってる14,5歳ぐらいの女の子。春休みデビューみたいなヒラヒラした格好だ。となりの席に男子高生グループが来ると急いで起き上がり、席に座りなおした。

 俺のひとつおいて隣の席に一人客のじいさん。この店の中ではたぶん俺もこのじいさんと同じ位置づけだ。もう生きててもたいしていいこともない地味な中高年というところだろう。

 女の子たちが出ていったあとに母子連れが座る。若い母親はさっきいた女の子たちとたいして変わらない服装だ。まったくオチのない郊外の日常風景。こんなものを仔細に書きとめて何になる。ここから何か小説的なものが起ち上がってくるのか。自分の日常をありのままに書けば何か小説らしいものになるのか。

 3枚小説、20日ほど続けて時々さぼりながら10本ほど書いたが、まだ何か見えてきた感じはない。小説にはなっていない。私小説としてはOKかもしれない。私小説のよい読み手ではないのでわからない。

 さしてオチも重視しないスケッチ風の小説もあるにはある。昔の片岡義男とか。角川文庫の戦略もあってけっこう売れてたわりに意味がないともいわれていた。ああいったタイプの小説はけっこう視覚に訴える要素も強い。映像的記述も小説にとって重要な一部だ。保坂和志も情景を書けといっていた。練習してみよう。

 目の前、広告でいっぱいのシートを1枚敷いたトレイの上、斜めにストローをさした透明カップの底の溶けた氷の水にはコーヒーで薄く色がついている。ひねるようにフタがねじ開けられたがっむシロップとポーションの容器。アップルパイの殻、まるめたレシート、そんなものを詳細に書き込んで小説になるのか。小説の一部を形づくるパーツにはなるかもしれない。いずれにしてもヒマで物好きな人間のすることだ。

ストレンジャー・イン・レトロ喫茶

 移動の多い仕事をしているので、電車の乗り継ぎや予定より少し早めに目的地に着いたときなどに、よく喫茶店やファーストフードの店に入る。 

 大手チェーンの店はどこも同じようなつくりで、さすがに少し飽きたので、この頃は意識して地元の個人経営ぽい店を選んでいる。 

 初めて訪れた土地では、どんな個性的なお店が見つかるか、いつも少しわくわくする。 

 今日は都内某区の私鉄沿線の駅に降り立った。 

 ちょうどお昼が近かったので、食べる場所を探そうと思い、改札を出てすぐ正面にあるドトールへ入ろうとしたが、店内はほぼ満席。 

 他のところを探すつもりでずっと歩いてたら、踏切をわたっていつの間にか駅の反対側まで行ってしまった。 

 こっちのほうはドトールのあったあたりと比べると、むかしからの商店街という感じだ。 

 「コーヒー・食事」というちょっといなたい感じの看板を出してる店を発見。
 ちょっとレトロチックでドトールなんかよりよっぽど味があるじゃないか。思わず気をそそられて扉をあけた。
 

 店内にはわりと年配のお客さん数名。定年退職後みたいな男性や、趣味の稽古ごとの帰りらしいご婦人方。 

 服装などから、ひとめでこのへんに住んでる人たちだとわかる。あとから入ってきた客に「こんにちは」などとあいさつしている。どうやらみなさん常連で知り合い同士のようだ。
 そんな内輪的な雰囲気の中へ、一人だけよそ者がまぎれこんだ形になってしまった。
 

 少し長居してPCでも広げようと思ってたがちょっとそれもためらわれる感じだ。そそくさとランチセットをたいらげ店をあとにした。 

 その土地に古くからあるカフェとかには、どうしても過剰な思い入れを抱いてしまう。だけどそれはあくまでこちらの一方的な感情だ。 

 こっちには非日常であっても、お店にしてみればたんなる日常に過ぎないんだからね。
 よそ者が安住できる場所はなかなかないなーと思いつつ、あちこちの街でいやしのスポットを探しております。

「米満講座に文句」

 午前中、半日洋間を整理。下着のタンスを階段下に移動したりけっこう大物を動かして本格的にやる。午後はそのぶん疲れが出て寝てしまったが。ドトールで読書やPC入力を軽くやって帰宅、夜もCD整理に専念してた。

 いろいろ忙しくしてるので順調に物事進展してるような錯覚があるが実は生活に何の変化もない。編集関係の人間と多少fbでつながったりはしたがそこから先、仕事までつながるかどうか。昨日の講座に来てたOBたちが編集者たちの近くにいれば仕事にあぶれることはないみたいに言ってたが、やはり人づきあいうまくないとな。今回はすっかりやる気をそがれたよ米満には。こうもロコツに差をつけられるとな。なにさまだって感じ。そうやって仲間どうしで固まってお前の大好きなダサイクルやってろよ。

 講義の内容的にはいいこと言ってても、そういうとこで不公平だとなー。人間としてダメだよ。エキレビ見てるようなくだらないレベルの低い連中に媚びるようなネタ書いて楽しいか? ってことだ要は。

 深夜をまわった。母が眠りについたのでテレビと部屋の明かりを消す。かてなで新しくブログを開設し、この1日3枚小説をネットに挙げてくことにした。とりあえずは非公開。

 はじめは手書き、続いてPCに入力、そしてネットにUP。この過程で少しずつ文章に手を入れる。一見日記風だが、この文と日記とをもっとも大きく分けている点だ。今まで書いていた日記は単なる日常メモ化していたが、こっちは完成度を上げて少しでも「小説」に近づけていきたい。

 この1日3枚を始めてから今までの日記はほとんど書く必要がなくなった。この文章が小説かどうかはまだ微妙なところだ。小説だとすればジャンルは私小説という括りになるだろう。個人的には小説はストーリーがなければという考えだが、今回の試みに関しては、必要ないのに無理にストーリーをでっちあげる必要はまったくないかなと思っている。ただ、ヤマなしオチなしイミなしのフラットな日常に多少の起伏をつけるぐらいのことはするだろう。誰もがある程度、自分の日常を「物語」として受け止めているのだろうから。それが自分にとって気にいらない物語だった場合、彼は自分が不幸な人生を送っていると感じるようになる。

 米満講座で不当な扱いを受けているとオレが感じることもひとつの物語ではある。そのシナリオに沿って主人公としての俺は行動する。言い古された表現だが、自分の人生の主人公は自分だ。自分しだいでいくらでも人生は変えることができる。

 ネットで聞いてるインターFMが古い音楽を流し続けている。少しここで意図的に現在の情景描写を挿入しよう。手元のLEDライトの明かりが半径50センチ四方を浮かび上がらせている。PCのキーボードと、そのまわりを取り囲むメモ書きの産卵が青白い光に照らされ、なかば影に沈んでいる。

 過去の1日3枚小説のUP作業を続行する。