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re-union

あちこちのブログ、HPに書きちらかしたエントリを一本化。

『希望の国』

 真夜中に突然いなり寿司を食べたくなった若い女性が、24時間営業のコンビニに駆け込んで「あいててよかった」と思わずつぶやく・・・そんなCMが80年代なかごろ深夜のTVでさかんに流れていた。バブル時代のライフスタイル変化のきざしを象徴するようなCMだった。

 コンビニで24時間買物ができることなんかいまでは珍しくもなんともなくなってしまった。煌々と街灯が輝く通りは安心して歩くことができ、工場は昼夜フル操業で生産ラインを稼働させ、好景気を下支えした。そんな「ぜいたく」が可能だった要因のひとつに原子力発電による安価な深夜電力があったことは確かだ。

 そうやって原子力発電の恩恵を受け続けてきた僕らにとって、福島第一の事故とその被害をこうむった人たちの苦しみは(普通の神経をもっていれば)けして他人事とは思えないはずだ。にもかかわらず僕らはいまだに震災前と大差ない生活を続けている。これでいいのだろうかと時折り後ろめたさにかられながらも。



 震災、原発事故から丸3年という節目を間近にした今年の2/9、埼玉県吉川市の公民館で開かれた映画『希望の国』の上映会。前日の大雪にもかかわらず多くの人が訪れ、上映前には園子温監督から今回の上映会へ向けてのメッセージビデオも流された。

 震災とそれに伴う原発事故により、一本の規制線を境に強制的に避難させられる人々、避難区域のすぐ外側に住み続けることを選択しながらも、将来ある息子夫婦には避難を勧める酪農家の老夫婦、それぞれ立場の違う三組の男女のたどる過程を、映画は同時進行でていねいに描いていく。

 年老いた両親と別れ、住みなれた家を捨て去っていく息子の行為は、言ってみれば「姥捨て山」の逆パターンだ。その妻は避難した先で妊娠するが、放射能を怖れ防護服に身を固める姿は「放射能恐怖症」と言われ周囲から孤立する。

 観ていて、以前なにかのTV番組で原発事故の被災者がもらしていた言葉を連想した。「この土地では放射能に対し鈍感にならなければ暮らしていけない・・・」

 狂っているのは妻なのか多数派の人々なのか。医師から告げられる衝撃的なデータは事実のままだと園子温監督は語っている。

 警戒区域のすぐ外側に残った老夫婦にも、妻の認知症という危機が忍び寄る。
自宅にいるにもかかわらずしきりに「帰ろうよ」と口にする妻。これはもちろん特定の場所ではなく、事故が起きる前の家族が一緒に暮らしていた「あの頃」に帰ろうという意味だろう。

 彼女が浴衣を身にまとい、津波がすべてをさらっていった跡地で踊る季節はずれの盆踊りは、非日常の世界に半分足を踏み入れた者だけが可能な「死者との交信」なのかもしれない。



 この映画で描かれる震災や原発事故は「長島県」という架空の土地の出来事だが、震災からひと月後という設定にしては、やや周囲の状況が落ち着きすぎているようにも感じた。もちろん実際の東日本大震災とは別ものという設定なのだが。映画の中で描かれているのは震災の取材から得た事実だと園子温監督もメッセージビデオで語っている。

 あの震災から丸3年。被災地の復興と原発をめぐる現状はあまり進展しているとはいえず、震災前と大差ない日常の中で僕らも当時の緊迫感をほとんど忘れかけている。

 映画の中でも何ひとつ問題は解決していないが、登場人物たちはこれからも何らかの「希望」を抱いて一歩一歩前へ進んでいくのだろう。震災を体験した誰もが同じように「希望」を必要としている。一歩ずつ先へ進むために。