blog-chronicle〈ブロニクル〉

あちこちのブログ、HPに書きちらかしたエントリを一本化。

『小さいおうち』

 

 中島京子原作の山田洋次作品。 

 物語は元女中だった祖母(倍賞千恵子)の死から始まり、生前、自叙伝の執筆にかかる祖母と孫(妻夫木聡)との交流、さらに祖母が女中として過ごした太平洋戦争前の昭和初期と2段階にバックする。

 

 自伝執筆の進行にそって、祖母と孫のエピソードと女中時代の回想が交互に描かれる構成だ。

 

 最近は自分史や自伝を書くのがちょっとした流行になっているようで、専用のノートなどもさまざまな種類が売られている。これも世の中の高齢化の兆しなのかもしれない。

 

 山形の田舎から昭和のはじめの東京に出てきて女中として働く娘時代の祖母(黒木華)。

 

 いまでは「女中」は差別用語らしいが、(「女中さん」みたいに「さん」づけならOKなのか?)当時の女中は社会的に地位も高く、みな仕事にプライドを持っていたという説明がある。このへんは昔と今とで印象が大きく変わるところだろう。

 

 女中という職業への見方だけではない。祖母の語る当時の様子は僕たちの固定観念や常識となっているものをくつがえす。カルチャーショックで目からウロコが落下する。

 

 (常識がくつがえるといえば、詳しく覚えていないがけっこう深刻な内容の場面で、観ているお客から笑いが上がったのも僕的には常識がくつがえる出来事であった。「え、ここ笑うとこなの!?」って。自宅でDVDを見てるだけじゃ味わえない体験だ)

 

 すいません、話が横道にそれました。さて、妻夫木演じる孫が僕らの代弁者のような形となり、時代の解釈をめぐって祖母とディスカッションを繰り返すのだが、個人的にこのあたりが非情に興味深い。

 

 孫が主張する「本当の歴史」はあくまで書物その他の記録や誰かの通説で得た「あとづけの知識」にすぎず、リアルタイムで経験した生き証人である祖母の実感の前ではいかにも説得力がない。

 

 ヴァーチャルな知識で武装した若輩者の滑稽にも思える姿は、ネットなどで仕入れた情報のみで「事実を知った」と思い込んでしまいがちな僕らに似ていないだろうか。世間に広く伝わるイメージを鵜呑みにするなという山田監督のメッセージにも感じてしまう。

 

 まあ、児童虐待体験者の語る幼いころの体験がしばしばフィクションだったりするという話もあるように、記憶というやつは時の流れによって修正が加わるらしいから、これはこれであてにならないけど。人それぞれ立場も変われば解釈も変わるだろうし。情報リテラシーを磨くべきであると、自己啓発ビジネス書みたいな結論にたどり着きそうだ。

 

 映画のストーリーに戻ると、最後に女中さんがとった行動は、けして責められるものでもないようにも思うが、いかがでしょうか。

 

 こういっちゃ何だが、メインとなる女中時代の出来事は、わりとありふれたというか、ありがちなエピソードだ。監督の山田洋次はこのストーリーを通して時代が戦争へ向かう過程をじっくりと描きたかったのだろう。

 

 この作品の公開後ではあるが、憲法第九条の解釈変更、集団的自衛権の行使容認など、時代はふたたび戦争への流れをリフレインするかのような動きを見せている。監督は現実に迫る危機への警鐘の意味もこの作品に込めたのではないだろうか。

 

 やや不要なエピソードも多いような印象も受けたが、これはディテールをじっくり描くことで当時の雰囲気を重層的に再現しようという意図だろう。戦時色を強めていく時代の姿がじわじわと立ち上がってくる感じがする。

 

 年老いた僕たちが書く自叙伝に、戦争のエピソードがないことを祈りたい。