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『家路』と『希望の国』、ふたつの映画の「原発」と「震災」へのスタンス。

 少し前、園子温監督の『希望の国』を見た。震災や原発事故に翻弄される人々を綿密な取材をもとに描いた物語だ。(感想もUPしました→http://blogs.yahoo.co.jp/nanasee64/54245667.html

 

 今回観た『家路』もテーマは同じではあるが、前者とは大きくトーンがちがう。真逆といってもいいかもしれない。

 

 『希望の国』が園監督の原発に対する鋭い告発と義憤に満ちているのに較べ、放射能汚染がすでに日常の隅々にまで浸透してしまった現状を淡々と描く『家路』には、静かな諦念が流れているように感じられる。もしかしたらその諦念は、そのまま現在の僕らの心境なのかもしれない。

 

 かんたんに『家路』のストーリーを紹介します(若干ネタバレ)。

 

 放射能汚染による避難地域の中にある自分の家にとどまり(もちろん違法)、田畑で農作物をつくり自給自足の暮らしを送ろうとする青年(松山ケンイチ)と、仮設住宅に移り住んで過酷な生活を余儀なくされる青年の兄(内野聖陽)とその妻(安藤サクラ)、幼い娘。一家には年老いた母親(田中裕子)も同居する。

 

 映画は兄弟の対照的な暮らしを交互に描きながら進む。物語の中ですでに原発問題は日常の一部となっており、人々は迷いや苦しみを抱えながらも新しい生活を始めようとしている。『希望の国』が震災直後の混乱の時期を描いているのに対し『家路』はより現在の僕らのスタンスに近い。

 

 そこに流れる基本的なムードは『希望の国』のような原発への激しい怒りではなく、震災後の風景があまりにも当たり前のものになってしまった無力感のようなものだ。それは僕ら観ている側にも共通した気分だろう。進まない復興、再稼働される原子炉、帰れない故郷。状況はなにひとつよくなっていない。そんな中で『家路』の主人公が選択した道は・・・

 

 映画の全編を通し強調されているのは「土」のイメージだ。

 主人公がスコップで黙々と地面を掘り返すファーストシーンに始まり、汚染された田の土を積んだトラックが東京へ向かって夜の国道を走り、兄と弟はつかみ合いの喧嘩の末に泥まみれになって転げあう。いずれも、この土地に住む人々が土と密接に結びついた暮らしを何代にもわたり続けてきたたことを暗示するエピソードだ。しかしその土は汚染され、生まれた土地に住み続けることもかなわなくなっている。

 

 静かな諦念を松山ケンイチが好演。反対に兄を演じる内野聖陽は、妻子や母親との先の見えない避難生活への憤りを全身で表現する。回想シーンで登場する父親役の石橋蓮司も、時間を越えた確執のドラマを物語の背景に付与している。

 

 さて、もう少しネタをバラしてしまうと『希望の国』と『家路』、どちらの作品にも主人公の母親に高齢者にとって切実な問題が生じる。

 原発事故で家を追われた人々、また追われた土地に強く執着する人たちに高齢者が多いことを考えれば避けて通ることのできない問題だ。映画のポスターにも使われた老いた母親を背負って山中を歩く松ケンの姿に『楢山節考』で描かれた姨捨がダブる。ただし『家路』の主人公は母親を捨てたりはしないのだが。

 

 難を言えば、あえて放射能の高い地域に住もうとする主人公の動機が少し弱いような気もした。心情的には分からなくもないがそこまでするかな、みたいな。まあ住むところを奪われた当事者の気持ちはお前になんか分からないよって言われればそれまでだが。

 主人公がもらす、どうせどこに住んでも同じことだという諦念は、どこか投げやりで後ろ向きなニヒリズムに感じられないでもない。その希望のなさがありのままの現実なのかもしれないけど。

 

 いずれにしても原発をめぐる問題はもう、いたずらにいきり立ったり嘆き悲しんだりする段階を越えているのだな、と『家路』を観て思わされた。僕たちはこの現状を起点として先へ進んでいかなければならない。それは『希望の国』に出てくる人々が最後に選んだ結論でもある。