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re-union

あちこちのブログ、HPに書きちらかしたエントリを一本化。

ひさしぶりのガイブン。 ~アゴタ・クリストフ『悪童日記』(ハヤカワ文庫)

 もう半年近く前になるでしょうか。とあるライター養成講座の課題で読みました。なにをいまさらな感じですが記録としてUPしておきます↓


 まず、主人公の少年たちをあずかるおばあちゃんのキャラで話に引き込まれる。イメージでいえば長谷川町子のいじわるばあさんか『千と千尋の神隠し』で千尋をこき使う湯婆婆という感じか。
 戦火のもと親元を離れて田舎へ疎開、厳しい環境に耐えたくましく生きてゆく…NHK朝の連ドラが好みそうな題材だが、日本ならいかにもウェットな話になりそうなところを本作品は短い断章を重ね、映画にたとえるならバラバラのシーンを無造作につないだような形式を採用、慎重に情感を排している。内面描写を抑え風景や物ひとつひとつを具体的に描いた文章も映像化に向いている。
 それぞれの断章は残酷でありどこかユーモラスでもある。孤独、貧困、異常性欲。戦時下という極限状況にいる人間のありのままの姿が主人公たちの視線を通し暴き出される。
 タフな世界へ投げ込まれた少年公たちはけして不幸な身を嘆き悲しんだりしない。「痛み、暑さ、寒さ、ひもじさといったあらゆる苦痛」に耐える修練を重ね、肉体と精神を鍛え独学で知力を身につけていく。
 愚劣な大人たちを手玉に取りしたたかに生き抜いていく様子はアンファン・テリブル、小さなモンスターだ。やわらかい心を捨てなければならなかった彼らはつぶやく。「ぼくらは絶対に泣かないんだ」
 そんな彼らのぶっきらぼうな語り口にも時おり母への思いが顔をのぞかせる。母から送られてきたお金で長靴を買いに行く場面で最後にさりげなく「母親の手紙はシャツの内側に忍ばせた」と付け加えたり、逃亡する父親の身元が割れないよう所持品を焼きながら母の写真だけは残しておくあたり、押しつけでない情感が迫ってくる。
 このように『悪童日記』はけして内面をないがしろにした即物的な記述ばかりの小説ではない。多くは語らないが抑制された感情が物語の背後からにじみ出ている。短い断章の多くでは、最後の一文が幕切れとして非常に効果をあげている。それはときに冷酷だったりもするのだが。
 万引き、恐喝、そして殺人とエスカレートしていく少年たちの行為に「子どもは純真なもの」と当たり前のようにいう人々はショックを受けるかもしれない。これははたして「戦争の狂気」によるものか、もともと子どもが持つ純粋な残酷さなのか。場所や年代をあえて特定しない寓話性は、酒鬼薔薇事件をはじめ多くの少年犯罪が大人をおびやかせている現代の日本にも通じるだろう。双子はエディプス的解釈そのままに父親を殺し、文字通りその死骸を乗り越えていく。
 この物語の主人公、一人でもじゅうぶん成立しそうなのに、作者はなぜわざわざ双子にしたのだろう? 読み進めながらそんな疑問がずっと頭の隅でもやもやしていたが、ラストの一行でなんとなく結論が浮かんだ。
 国境のこちらと向こうへ別れた双子、彼らはきっとその後長く対立が続いた西側世界と東側世界の象徴だったにちがいない。



 ↑外文を読むのも久しぶりだった。講座へ参加していなければなかなか読む機会がなかったわけで、それだけでも参加した意義はあったかな。