『小説家を見つけたら』
ブロンクスの貧民街に住みながら、バスケも上手いし文章力にも優れている、まさに文武両道な黒人少年。
劣悪な環境の中にいては、せっかくの才能も生かされないというわけで、場違いな一流校に編入した彼が
古いビルの一室に隠れ住む小説家のアドバイスを受けながらその文才を磨いてゆくビルドゥングス・ロマン。
M・デイモン主演の『グッドウィル・ハンティング』とかC・イーストウッドの『グラン・トリノ』を思わせる作品です。
名門を気取る学園の連中もイヤミですが、
彼らと正反対の立場をとりながらどこかで「知性」というものにすがっている
ショーン・コネリーの小説家も鼻につくといえばつきます。
彼の心のどこかで「作家センセイ」と尊敬されたがっているのです。
だから少年のコーチ役を引き受けたのではないかと。
ちょっとイジワルな見方をすれば「小説家を見つけたら」ではなく
「小説家は見つけられることを望んでいる」のです。
「俗世に隠棲する賢者」の物語はよくありますが、
彼らも見出されなければ意味がないわけでストーリー自体が成り立たない。
そもそも他者が見つけることなしに、誰がその人を「賢者」だと定義づけるのだろう。
まさか賢者地震が「オレは賢者だ、オレは賢者だ」と言ってまわってるんじゃあるまいな。
「まったく、ワシと比べたら世間はバカばっかりだ」みたいなグチを
一人TVに向かいながらブツブツつぶやいてたりとか。
でもそういう人っていそうだよな。自分は賢いからバカな世間とはかかわりたくないっていう人。
だけど心の底ではひそかに誰かがあがめたててくれるのを望んでる。
でも誰も相手にしてくれなくて、しかたなくネット上にいろいろ書き込んでるんだけど無視されまくっているという…
こんなヤツ、身近にいそうだなあ。
あれ…?
冗談はここまでにしといて
たしかにS・コネリーのような存在にも意味があるのです。
社会が押しつける「教育」や「理想的な大人のモデル」からはずれたところにも十分魅力的な人間はいて、
その生き方から後続の世代が人生の知恵を学んだりできる、
また、そういうあまり褒められたものではないチョイ悪オヤジに事欠かないのが
下賤なエネルギーを持つ街場という場所なのでしょう。
あえて大勢にそむき、非主流の立場を貫き続けることはむずかしい。
S・コネリーの作家も少年を助けるためとはいえ公の場に顔を出し
主流派のリスペクトを受けてしまう。少年ともどもマジョリティに受け入れられてしまう。
そこにこの作品の弱さを感じてしまいます。美談で終わってしまうところに。