blog-chronicle〈ブロニクル〉

あちこちのブログ、HPに書きちらかしたエントリを一本化。

いまはむかし、黄金の日々の夢のあと ~都築響一『バブルの肖像』

 今も全国あちらこちらに残るバブル時代の遺物や、胸に刻まれているあのころの出来事を豊富なカラー図版とともに再検証、いったいあの狂乱の時代はなんだったのか考えてみようという趣向の一冊だ(アスペクト刊)。

 僕自身、年齢的にはまさにバブルのど真ん中を走り抜けた世代です(あくまで年齢的には)。 当時、一介のフリーターの身分でありながらタクシーチケットを支給され、都心から埼玉のド田舎まで1万5千円近くもかけて深夜のご帰還をしてたりしたっけ。あのころネオンが輝く六本木から首都高を小一時間ほど飛ばして帰ってくると地元は真っ暗闇で彼我の差を感じさせた。

 そうそ、ふるさと創生事業と称し竹下政権が日本中に1億円ばらまいたこともあったっけ。降ってわいたようなそのカネで金の延べ棒を買ってうやうやしく陳列したり、黄金のトイレを作ったりとやたらゴールドにはしりヒンシュクをかった自治体も多かった。持ち馴れないカネを持つとこんな醜態をさらすんだといういい見本だったな。
当時の政府と同様、地方創生をうたう安倍政権も似たようなばら撒きを始めるんじゃなかろうか。バブルの夢よもう一度みたいに、

 みっともなかったのは個人レベルでも同様。当時の日本人はひたすら汗水たらして働くだけで、カネの使い方なんかまるきり知らなかった。最高級シャンパンでつくったうまくもないカクテルを飲んで悦に入ったり。たんなる成金ですな。
 当時の不動産や銀行、証券関係の「バブル紳士」たちは、いまではみんな体をこわしたか行方不明になってると、本書でも銀座の高級バーのママが証言してる。ああ、まさに強者どもの夢のあと。

 好景気の波は郊外や地方へも及んだ。垂涎の的となった高級住宅地チバリーヒルズを筆頭にとんでもないへんぴな片田舎にまで小ぎれいな住宅が建ち並んだ。死ぬまで続くローンを抱えたおとーさんたちは都心まで新幹線通勤。もちろん定期代は会社負担(全額じゃないかもしれないけど)。オッサン、そんなに会社にとって貴重な人材だったのかって聞きたくなるけど。

 そんなバブルと呼ばれた時期も本書によれば3年あまりでしかない。意外に短かったんだな。80年代ずっとそんな感じかと思ってたけど。
あの時期については誤解されている部分も多いような気がしていて、はたしてみんながみんな、バブル紳士のように遊び狂っていたのだろうかと個人的には異論を唱えたい気もする。

 その証拠には僕自身、この本が取り上げているバブリイな流行や風俗にはほとんど縁がなかったんだから。あ、それはオレが個人的にビンボーだっただけで、ちっとも証明になってないか。毎日のバイトからくたびれきって四畳半のアパートに戻り、深夜のTVのバカ騒ぎをぼんやり眺めてたぐらいで「なんだか騒々しかったな~」という印象しかない。

 あのころ日本人全部が金の亡者になってたみたいに言われがちだが、人によって、場所によってはバブルの恩恵を受けられなかったろうし、目の色を変えてカネを追いかける風潮に疑問を抱いていた人も多かったろう。

 まだまだ古い倫理観だって生きていたろうし、目の色を変えてカネを追い回す風潮をよしとしなかった人だって多いはずだ。後世に残るバブル史観には少し修正を加えたい気もするのだが。

 とはいうもののバブルがあったからこそ、多くの人がゴッホの「ひまわり」の実物を見ることができたのだろうし、人生は働くだけじゃない、遊ぶことだって大切なのだと初めて気づいたにちがいない。

 若いときに羽目をはずして遊びまくった時期があったからこそ、成熟したいい大人になれるんじゃないだろうか。バブルの時期に空間プロデュースにも関わった経験がある著者は、本書でもけしてバブルを完全否定はしていない。

 その後の景気悪化で買い手がつかず、ゴーストタウンのようになった高級住宅街とか、異様な外観で周囲の景色から浮きまくっている建造物とかが、本書が出版された2006年の時点ではまだまだ全国に残っていたようだ。いまはどうなんでしょう。この国の黒歴史として取り壊され跡形も残っていないかも。
そういったバブルの遺産を訪ねて、あの時代を偲ぶツアーとか個人的にやってみたいものだ。

 

 

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『家路』と『希望の国』、ふたつの映画の「原発」と「震災」へのスタンス。

 少し前、園子温監督の『希望の国』を見た。震災や原発事故に翻弄される人々を綿密な取材をもとに描いた物語だ。(感想もUPしました→http://blogs.yahoo.co.jp/nanasee64/54245667.html

 

 今回観た『家路』もテーマは同じではあるが、前者とは大きくトーンがちがう。真逆といってもいいかもしれない。

 

 『希望の国』が園監督の原発に対する鋭い告発と義憤に満ちているのに較べ、放射能汚染がすでに日常の隅々にまで浸透してしまった現状を淡々と描く『家路』には、静かな諦念が流れているように感じられる。もしかしたらその諦念は、そのまま現在の僕らの心境なのかもしれない。

 

 かんたんに『家路』のストーリーを紹介します(若干ネタバレ)。

 

 放射能汚染による避難地域の中にある自分の家にとどまり(もちろん違法)、田畑で農作物をつくり自給自足の暮らしを送ろうとする青年(松山ケンイチ)と、仮設住宅に移り住んで過酷な生活を余儀なくされる青年の兄(内野聖陽)とその妻(安藤サクラ)、幼い娘。一家には年老いた母親(田中裕子)も同居する。

 

 映画は兄弟の対照的な暮らしを交互に描きながら進む。物語の中ですでに原発問題は日常の一部となっており、人々は迷いや苦しみを抱えながらも新しい生活を始めようとしている。『希望の国』が震災直後の混乱の時期を描いているのに対し『家路』はより現在の僕らのスタンスに近い。

 

 そこに流れる基本的なムードは『希望の国』のような原発への激しい怒りではなく、震災後の風景があまりにも当たり前のものになってしまった無力感のようなものだ。それは僕ら観ている側にも共通した気分だろう。進まない復興、再稼働される原子炉、帰れない故郷。状況はなにひとつよくなっていない。そんな中で『家路』の主人公が選択した道は・・・

 

 映画の全編を通し強調されているのは「土」のイメージだ。

 主人公がスコップで黙々と地面を掘り返すファーストシーンに始まり、汚染された田の土を積んだトラックが東京へ向かって夜の国道を走り、兄と弟はつかみ合いの喧嘩の末に泥まみれになって転げあう。いずれも、この土地に住む人々が土と密接に結びついた暮らしを何代にもわたり続けてきたたことを暗示するエピソードだ。しかしその土は汚染され、生まれた土地に住み続けることもかなわなくなっている。

 

 静かな諦念を松山ケンイチが好演。反対に兄を演じる内野聖陽は、妻子や母親との先の見えない避難生活への憤りを全身で表現する。回想シーンで登場する父親役の石橋蓮司も、時間を越えた確執のドラマを物語の背景に付与している。

 

 さて、もう少しネタをバラしてしまうと『希望の国』と『家路』、どちらの作品にも主人公の母親に高齢者にとって切実な問題が生じる。

 原発事故で家を追われた人々、また追われた土地に強く執着する人たちに高齢者が多いことを考えれば避けて通ることのできない問題だ。映画のポスターにも使われた老いた母親を背負って山中を歩く松ケンの姿に『楢山節考』で描かれた姨捨がダブる。ただし『家路』の主人公は母親を捨てたりはしないのだが。

 

 難を言えば、あえて放射能の高い地域に住もうとする主人公の動機が少し弱いような気もした。心情的には分からなくもないがそこまでするかな、みたいな。まあ住むところを奪われた当事者の気持ちはお前になんか分からないよって言われればそれまでだが。

 主人公がもらす、どうせどこに住んでも同じことだという諦念は、どこか投げやりで後ろ向きなニヒリズムに感じられないでもない。その希望のなさがありのままの現実なのかもしれないけど。

 

 いずれにしても原発をめぐる問題はもう、いたずらにいきり立ったり嘆き悲しんだりする段階を越えているのだな、と『家路』を観て思わされた。僕たちはこの現状を起点として先へ進んでいかなければならない。それは『希望の国』に出てくる人々が最後に選んだ結論でもある。

 

『小さいおうち』

 

 中島京子原作の山田洋次作品。 

 物語は元女中だった祖母(倍賞千恵子)の死から始まり、生前、自叙伝の執筆にかかる祖母と孫(妻夫木聡)との交流、さらに祖母が女中として過ごした太平洋戦争前の昭和初期と2段階にバックする。

 

 自伝執筆の進行にそって、祖母と孫のエピソードと女中時代の回想が交互に描かれる構成だ。

 

 最近は自分史や自伝を書くのがちょっとした流行になっているようで、専用のノートなどもさまざまな種類が売られている。これも世の中の高齢化の兆しなのかもしれない。

 

 山形の田舎から昭和のはじめの東京に出てきて女中として働く娘時代の祖母(黒木華)。

 

 いまでは「女中」は差別用語らしいが、(「女中さん」みたいに「さん」づけならOKなのか?)当時の女中は社会的に地位も高く、みな仕事にプライドを持っていたという説明がある。このへんは昔と今とで印象が大きく変わるところだろう。

 

 女中という職業への見方だけではない。祖母の語る当時の様子は僕たちの固定観念や常識となっているものをくつがえす。カルチャーショックで目からウロコが落下する。

 

 (常識がくつがえるといえば、詳しく覚えていないがけっこう深刻な内容の場面で、観ているお客から笑いが上がったのも僕的には常識がくつがえる出来事であった。「え、ここ笑うとこなの!?」って。自宅でDVDを見てるだけじゃ味わえない体験だ)

 

 すいません、話が横道にそれました。さて、妻夫木演じる孫が僕らの代弁者のような形となり、時代の解釈をめぐって祖母とディスカッションを繰り返すのだが、個人的にこのあたりが非情に興味深い。

 

 孫が主張する「本当の歴史」はあくまで書物その他の記録や誰かの通説で得た「あとづけの知識」にすぎず、リアルタイムで経験した生き証人である祖母の実感の前ではいかにも説得力がない。

 

 ヴァーチャルな知識で武装した若輩者の滑稽にも思える姿は、ネットなどで仕入れた情報のみで「事実を知った」と思い込んでしまいがちな僕らに似ていないだろうか。世間に広く伝わるイメージを鵜呑みにするなという山田監督のメッセージにも感じてしまう。

 

 まあ、児童虐待体験者の語る幼いころの体験がしばしばフィクションだったりするという話もあるように、記憶というやつは時の流れによって修正が加わるらしいから、これはこれであてにならないけど。人それぞれ立場も変われば解釈も変わるだろうし。情報リテラシーを磨くべきであると、自己啓発ビジネス書みたいな結論にたどり着きそうだ。

 

 映画のストーリーに戻ると、最後に女中さんがとった行動は、けして責められるものでもないようにも思うが、いかがでしょうか。

 

 こういっちゃ何だが、メインとなる女中時代の出来事は、わりとありふれたというか、ありがちなエピソードだ。監督の山田洋次はこのストーリーを通して時代が戦争へ向かう過程をじっくりと描きたかったのだろう。

 

 この作品の公開後ではあるが、憲法第九条の解釈変更、集団的自衛権の行使容認など、時代はふたたび戦争への流れをリフレインするかのような動きを見せている。監督は現実に迫る危機への警鐘の意味もこの作品に込めたのではないだろうか。

 

 やや不要なエピソードも多いような印象も受けたが、これはディテールをじっくり描くことで当時の雰囲気を重層的に再現しようという意図だろう。戦時色を強めていく時代の姿がじわじわと立ち上がってくる感じがする。

 

 年老いた僕たちが書く自叙伝に、戦争のエピソードがないことを祈りたい。

喧嘩上等! 汚れた街をゆく孤高の哲学者 ~中島義道『醜い日本の私』

今回のエントリはちょっとビクビクもんで書いてます。誰が見てるか分かったもんじゃないインターネット。著者本人の目に触れる可能性もじゅうぶんにある… それでもどうしてもこの本はご紹介したい。泣く子も黙る怒りの哲学者・中島義道氏の『醜い日本の私』(新潮選書)です。

著者には「うるさい日本の私」という本もある。ひたすら客を呼び込む商店街のスピーカー、列車の乗降客にしつこく注意を呼びかけ続ける駅のアナウンス、お節介な役所の標語等々、無自覚にまき散らされる世間の雑音に著者がバトルを仕掛ける問題作だ。 

著者はその本を出したとき、「タイトルの“うるさい”は、「日本」にかかるのか「私」にかかるのか」と知人から尋ねられたそうです。著者の答えは「“うるさい”日本の“うるさい”私」なんだとか。納得…。

その続編と言ってもいい本書のタイトルの意味も、「”醜い”日本の”醜い”私」だとか(笑)。いやあ、徹底して憎まれキャラを演じていらっしゃる。

今回も著者のヒールぶりは凄まじい。いきなり序盤であの大建築家・磯崎新氏の書いた文章に「おいおい、寝言をほざくなよ」とストレートにケンカを売るわ、勤務先の大学から教授仲間、住んでいる地元の役所まで、著者のゆくところ、どこでも凄絶なバトルが繰り広げられる。著者の主張はいちいちごもっともなんだけど、いやー読んでるだけで寿命が縮むわ。

…などと言いつつわたくし、この人のキャラはけして嫌いではない。嫌いではないんだけど、あまりお近づきにはなりたくない気もする(笑)。知り合いにこんな人がいたら身が持たんわ。うーん、まさにアンビバレンツ。ウイーン愛憎。

著者はけして相手を挑発しようとしているのではない。大真面目そのものだ。むしろ経過の一部始終を読むかぎりでは対応する側の不誠実さも目立つ。彼らは既成の常識を持ち出すだけで、自分の頭で考えようとしない。良識の皮をかぶって、対話することから、真摯に向かい合うことから、逃げているのです。そこが著者の怒りの炎に油を注ぐ結果となるのでしょう。

街の景観の話に戻るが、本書の冒頭で多田道太郎の「日本の商店街の原点は縁日である」という言葉が紹介されている。まさに至言だが、そのような商店街の風景に著者は違和感を捨てられずにいる。どぎつい悪趣味な看板、商店の店先から道ばたまではみだした商品の山、狭い路上に折り重なる放置自転車、頭の上でとぐろをまく電線…。

僕自身はゴミゴミした場所で生まれ育ったせいか、こういう景色がわりと嫌いではない。「美しい」とは間違っても思わないけど。著者自身いうように感性というものはひとりひとりちがうのだから、著者の意見に諸手をあげて賛成するつもりはない。

とはいうものの、電柱の林立する京都の街並みを美しいと誉め讃える人々について書かれたくだりを読むと、著者と同様の違和感を感じてしまう。善意のもとに巧妙なすり替えが行なわれているような気がするのだ。それはシャッターを閉めた店が目立つさびれた商店街を、「ここは歴史ある宿場町です」と持ち上げている、どことは言わないが僕の地元のギマン性にどこか通じるものがある。あんた、ほんとにそう思ってんのか?お客を呼びたいだけじゃないのか?って。

身のまわりの不快なものをそのまま見過ごしにせず、責任者のもとまで直談判に出向く中島氏は一見たんなるクレーマーのようだが、そうではない。哲学者である著者は自己の哲学を机上の空論とはせず実践に努めているのである。

そしてその実践の果てに、多数派が少数派を弾圧する社会の構造がみえてくる。この国に巣食う「多数決の名のもとに行なわれる排除」という重要な問題を、はからずもあぶりだすのです。これは見過ごしにできない。

ただ黙っていては状況は変わらないのです。失礼な店員の態度にふだんぐっと怒りを飲みこんでいるあなた、今日から「怒りの哲学」を実践してみては?

 

 

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