ごあいさつ。
サブタイトル~小説家でもないのに小説を読んだり書いたりについていっちょまえに語るブログ。
はじめまして。シオ・コージと申します。
自己紹介。
そうそう、自己紹介をしておきます。
「愛着はあっても執着はしない」~聖なる夜の沢木耕太郎のラジオ。
クリスマス・イブの夜(正確にはもう25日になってたけど)、J-WAVEの沢木幸太郎がパーソナリティーをつとめるスペシャル番組を聴いていた。
番組名は『MIDNIGHT EXPRESS~天涯へ』。はじめて聴いたのだが、毎年クリスマスの夜に放送され、今年で19回目にもなる定番番組らしい。
内容はノンフィクション作家・沢木耕太郎氏が自身の旅や仕事について語り、ときには電話でリスナーとも語り合うハートウォーミングなもの。聖夜にふさわしい心穏やかになれる番組だった。
10年近く前に講演で沢木氏の生の声を拝聴したこともあるが
久しぶりにラジオで聴いても相変わらずソフトで若々しい語り口で
リスナーの方々のいうようにいつまでも青年ぽさを失わない人だなと感じさせられた。
番組の中で沢木さんは、1000円ぐらいの安い腕時計をテープで補修して使っているとユーモアをまじえて語っていたが
あまりモノにはこだわらない人らしく、こんな発言もあった。「愛着はあるけれど執着はしない」
そうかー、愛着を持つこととそれに執着してしまうことはちがうのかー。
そしてこんなことも言っていた。「執着するものがなければ、それだけ自由になれる」
そうそう、たしかに長く生きてくると抱えてるものがいやでも少しずつ増えてくる。結局はそれが自分の自由を奪っているのだ。
このところ日々になんとなく閉塞感息感じていたのだが、そこから抜け出すヒントをもらったような気がした。2015年の終わりに自分の生活を見つめなおす貴重なひとときだった。
ラジコのサイト上にもリスナーの方々からのメッセージが次々とUPされ、さまざまな思を抱えた人たちが番組を聴いているのだなーと感じさせた。
以前、沢木氏はエッセイで、よその国へ出かけて日本へ帰る際、土産を買おうかどうしようか迷ったというエピソードを書いている。
おそらくもう2度と来ることはないかもしれない。旅の記念に、ごく平凡なTシャツを買おうとしたのだが、さんざん迷った末に結局は買わずに帰ってきたという。
思い出の品が少しずつ増えて人生が重くなっていくことを心のどこかで拒否しようとしたのにちがいない。その気持ちはわかるような気がする。
個人的には最近若くなくなったせいか、旅先で思い出の品をもとめるのも悪くないかなと思うようになった。沢木さん、いまでも旅先で思い出の品を買ったりはしないのかな。
揶揄するところもない土地にいったい何があるというんですか! ~『東京するめクラブ 地球のはぐれかた』
村上春樹の新刊『ラオスにいったい何があるというんですか』が刊行された。
なんだかラオスの国とそこに住む人々を小馬鹿にしているようなタイトルだ。村上先生は以前も自作の中で北海道の実在する街について多少皮肉めいた描写をして抗議を受けた過去がある。
そのときはたしか村上側が謝罪、問題の箇所もあらためられたそうだが。いやー、今回も懲りなかったというか自分のポリシーを貫いているというか、またもや物議をかもしだしそうで心配だ。
で、つい最近読んでたのが「東京するめクラブ 地球のはぐれ方」(文春文庫刊)。そのうち感想を書くつもりでそのままになっていましたが、このタイミングでUPできるのはラッキイです。
正確にはこの本、村上春樹著ではありません。村上氏吉本由美、都築響一によって結成された「東京するめクラブ」による共著ですが、実際この本を手に取る読者にとっては村上春樹がメインの書き手という認識でしょう。
その村上氏が第1章でいきなり名古屋を揶揄している。
これがけっこう差別的でシャレとしてはややキツい。よく地元に住んでいる方々から抗議が来なかったもんだ。おそらく名古屋の人たちは都会人なので、あー、こんな見方もあるのねと軽く受け流しているのでしょう。
北海道某町のケースとちがい本書はエッセイ・ノンフィクションというジャンルにあたるので、書かれた内容が事実そのものと受け取られるリスクも大きい。もちろんあくまで書き手の主観がもとになっているし、正確な記録が目的ではないから誇張的な表現があるのも当たり前なのだが・・・
名古屋以外にも熱海、ハワイ、江の島などさまざまな地に「東京するめクラブ」の面々が訪れ、メンバー各自がリレー形式でその地に関する文章をつづっている。もちろん全てが揶揄的な内容ではなく、一方で地元の名物やこだわりスポットの紹介があったり、その地についての比較的真面目な考察もある。
よーく読み込むとそれとなく分担が分かれている印象がないでもない。たとえばもっとも茶化した目線で書かれた文章は村上氏ではなく別の方のものであったりとか。これはハルキ・ムラカミ本人がその種の文章を書くことで作家のイメージがダウンしないようにという計算であろう。
いずれにせよ本書の内容について、執筆者のなかでもっともネームバリューがある(と思われる)ハルキ・ムラカミ氏が矢面に立たされてしまうのは、やむを得ないところでしょう。
どんなからかいや悪口もシャレで済ませてしまう都会の人たちもいる反面、過疎が進んでるような地域にとって、愛すべき郷土のイメージダウンにつながるような記述は見過ごしにできないだろう。その気持ちもよーわかる。
『地球のはぐれ方』の揶揄的部分は、刊行された当時では許されても、いまだったら社会情勢等の変化で発表できないかもしれない。
だけどそれを読んだ僕らは失笑をまじえつつ「これってホントなの!?」とちょっと興味をひかれ、思わずその土地に足を運んで実情を見届けたくはならないだろうか?
個人的には揶揄的な文章を否定しない。というかむしろ大好きなんですね―これが。
書かれる対象に配慮したり、クレームに発展するのを怖れて自己規制ばかりしていたら、そこからは毒にもクスリにもならないつまらないものしか生まれないだろう。作家の書くものはあくまで文芸。しょせん作家は芸人なのです。皮肉や毒舌が好きな読者はだいたいシャレだって分かって話半分で読んでますしね。
からかわれるものは、それと同じぐらいの魅力があるはず。ラオスだって、きっといい場所にちがいありません。
新ブログ始めました。
聴覚障害についてちょっと真面目に考えてみた。
半年ほど前になるが地元フリーペーパーの取材で、聴覚障害、ろう者の方たちとそれをサポートする支援団体のイベントへ出かけた。
会場は地元の公民館ホール。客席には多くの来場者。聴覚障害の当事者や支援など関わる人々はこんなにも多いのだと思わされる。
外から見ただけではなかなかわからない聴覚障害だがコミュニケーションには重大な支障をきたす。
ろう者がコミュニケーションする場合、「手話」と「口話」のふたつの手段がある。これまで日本ではろう者の教育は口語だけと定められ、手話というコミュニケーション法はなかなか認知されなかった。
ろう者が手話で教育を受けられ、手話がろう者の言葉(言語)であると認める「手話言語法」制定の必要性を訴えることがイベントの主旨であった。その後知ったが日本の法律では「盲ろう者」の定義もはっきり定められていないという。まったくひどい話だ。
イベントの後半、ダンスと手話によるパフォーマンスが行われた。
演じたのは聴覚障害者と健常者の混成による女性4名のグループ。振付けの中に手話を取り入れながらダンスミュージックに合わせて踊る。聞こえる人も聞こえない人もともに楽しめる趣向だ。彼女たちはこのパフォーマンスを各地で披露しているという。
ステージに明かりがともり、イントロとともに手話ダンスが始まった。4人の女性がチェック模様の衣装に身をつつみAKB48の「恋するフォーチュンクッキー」などさまざまな曲に合わせて踊る。振り付けもぴったり、リズム感も抜群だ。
ぼんやりと客席で眺めていた僕は、あることに気づきちょっとした衝撃を受けた。
いまステージで踊っているグループには聴覚障害の方も含まれている。事前の紹介ではたしか完全に聴こえないということだった。いったいどうやって曲にぴったり合わせて踊ることが可能なのだろう?
考えられるとすれば客席後方の観客から見えない場所にライトが仕掛けてあり、それが曲に合わせてピカピカ点滅するのを目で見ながら踊っている可能性だ。しかし客席から振り返ってみてもそんなライトはどこにも見当たらなかった。だとするとステージの床に伝わる音楽の振動をたよりに踊っているのか・・・。
いずれにしても僕らの想像を超えた厳しい練習を積んでいるのにちがいない。見ている僕たちにまったくハンディキャップを感じさせないパフォーマンスだった。
イベントの前半にはろうの方が自身の体験談を手話をまじえながら会場に伝えた。ご高齢の女性であったが、その方の少女時代、ろう者に対する世間の風当たりは今以上に厳しいものだったという。
ろう者はなかば強引に寄宿制のろう学校に入れられた。まだ幼かったその方は無理やり両親と引き離され、たいへん寂しい思いをしたという。
寄宿学校では手話を使うことは絶対禁止で不自由な口話によるコミュニケーションを強制された。はじめに書いたように手話はろう者の言語として認められていなかったのだ。いままで知らなかった事実に衝撃を受けた。
聴覚障害、ろうをめぐる厳しい現実をあらためて知るよい機会だった。
ちなみに僕も片方しか耳が聞こえず、イベント主催者に取材したとき「実は僕も聴覚障害があるんですよ」とカミングアウトしたかったが、なんとなく気後れして切り出せなかった。ろうの人たちに較べれば自分なんかとても障害と呼ぶほどではない。いってみれば「なんちゃって障害者」だ。
これまで自分が「障害者」ではなく、どうにか「健常者」のあいだで生きてこられたのも、かろうじて片方の耳が聞こえていたからだ。ほんとに紙一重の偶然というか幸運だったにすぎないのだ。
もし両方とも聞こえてなかったら、いまごろ僕はどうなっていただろう。もしかしたらチェックの衣装を着てステージの上で「恋するフォーチュンクッキー」を踊ってたかもしれない。
愛と裏表の憎まれ口か? 小谷野敦『このミステリーがひどい!』(飛鳥新社刊)
これだけたくさんのミステリーを少年期から読み、たんねんにトリックの矛盾や読後感をつらねている著者は、もしかしたら意外とミステリー好きなのではないでしょうか。ジャンルに対する愛情がなければなかなかできることではありません。そんなふうに思わされてしまう一冊です。
エンタメ小説の紹介本といえば作品をホメて持ち上げるのがごく普通なので、本書のような視点もある意味貴重です。「つまらなかった」とストレートに書いたり堂々とネタばらしする書評ってそうあるものではありません。
第1章から著者の私的なミステリー読書歴で始まり、その後も個人の事情や私情めいた記述がやたら飛び出してきます。やや暴論めいた印象も受けますがそれが持ち芸になってて、僕がこの人の書いたものの好きなところです。
「芥川賞というのは、伝統的に、面白くない作品を選ぶことになっている」
「実際はそう大したことのない作品が、出版社のカネの力とかでヨイショされている現状があって、これは推理小説に限らない」
(著者あとがきより)
読んでて思わず「ひええ」と声を上げそうなこうした発言も本書の読みどころといえましょう。
ここで本書あとがきに記された著者のミステリーベストをあげておきましょう。
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・1位 西村京太郎『天使の傷痕』
・3位 貴志祐介『硝子のハンマー』
・4位 ヘレン・マクロイ『殺すものと殺される者』
・5位 中町信『模倣の殺意』(『新人文学賞殺人事件』改題)
・6位 北村薫『六の宮の姫君』
・7位 折原一『倒錯のロンド』
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巻末には内外のミステリーやSFの代表作を列挙した年表までついており、そのへんもこの本が純然たるミステリー批判を目的としているのかどうか判断を危ぶむところです。憎まれ口は愛情の裏返し、愛と憎しみが同居するアンビバレンツな性格の書です。
著者と僕との行動範囲はけっこう重なっているようで、僕がよく通っている市立図書館の名が文中に突然登場したりします。年齢も近いし、もしかしたらこの図書館で接近遭遇してるかもなあ。
僕自身、少年時代から十代ぐらいまでさかんに読み漁っていたミステリーも最近はほとんどごぶさたです。本書を読んで、友人たちと読んだ本や見た映画、TVドラマについてあれは面白いだの、いや駄目だだの、さかんに熱弁をかわしていた頃を思い出しました。大人になってジンセイが複雑になってきたいまは、現実の暮らしに必死でフィクションの世界に没頭する心の余裕がないのでしょう。あるいは著者の指摘するとおりミステリーは、いや小説はジャンルとしての役割を終えようとしているのかもしれません。
「小説はたくさん書かれてきたが、さまざまな実験をおこないつつ、それもネタ切れになり、映画やテレビドラマ、漫画やアニメといった新しい表現手段によって地位を切り崩されてきて、かろうじて映画化、ドラマ化などの手段を通じて生き残っているのである」
(著者あとがきより)
大真面目なミステリー評論というより、著者特有のややひねくれたスタンスで書かれたヨタ話だととらえたほうが推理小説ファンにとっては精神衛生上よろしいのではないでしょうか。あまり真剣にとらえて傷ついたり著者に反感を抱いたりしないよう願うところです。