blog-chronicle〈ブロニクル〉

あちこちのブログ、HPに書きちらかしたエントリを一本化。

『ブレードランナー2049』

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
※一部ネタバレあります。ご注意を。
 
ブレードランナー2049』、公開から半月以上たってやっと観ました。
ネットでは「展開が重い」などネガティブな意見も多く出てるので、つい期待度も低くなって足が鈍ってしまいました。なんせ3時間近い尺ですからねー。かなりダレダレかもという懸念もあって。
ともかく、事前に余計な印象を持たず、まっさらな気持ちで観ようと、肯定的意見も否定的意見もできるだけ目にしないようにしました。
 
というわけであまり期待せずに観た『ブレードランナー2049』。
結論からいうと予想していたほど悪くありませんでした。
もっとも心配だった長尺ゆえのダレ問題ですが、思ったほどダレずにラストまでたどり着けた感じです。
これだったらあと小1時間ぐらい長くてもいいなと思ったぐらいです(笑)
 
たしかに話のテンポはいいとはいえません。
だけどそのぶん、美術やセットをじっくり見られるし、ストーリーの背後の謎について推理をめぐらせることもできました。
 
さて『ブレードランナー』といえば未来社会のディストピア描写。
前回は酸性雨だったが今回はスモッグがLAを覆っています。中国のPM2.5問題などから着想を得たのでしょうか。また震災直後の被災地を想起させる瓦礫の風景も登場します。
前作から30年のあいだにディストピアの描き方もただの絵空事ではなく、現実を反映したものになってきたようです。
 
前作の人気を不動にしたのがカオスなスラム街のビジュアルでした。
これまでのSF映画にあまりなかったガジェットなイメージは僕らに衝撃を与え、いわゆる“ブレードランナー感覚”として、映画はもちろん、文学やコミック、音楽や演劇、美術から建築まで、多くのカルチャーに影響を与えました。
 
 それこそあらゆる作品にコピーされてしまった“ブレードランナー感覚”は、いまではやや陳腐な表現にもなってしまいました。今回、前作のようなスラム描写が思ったほど出てこないのは、2049が自らのコピーとなってしまうことを慎重に避けているためではないかと思われます。やや物足りない気もしますが、引き換えにLA圏外の廃棄物集積場とかラスベガスを連想させる放射能汚染された廃墟の街とか、あらたなイメージが用意されています。
 
 「人は人工物に恋愛感情を持てるのか」という前作の裏テーマが、今度の2049にも引き継がれています。
第1作の主人公デッカードと女性型レプリカント・レイチェルとのロマンスは、あまり明るみには出せない、禁忌を犯すようなニュアンスで描かれていました。今回は新型レプリを開発したウォレス社の提供するサービス(?)、3D映像の女性「ジョイ」が、堂々と主人公のパートナーの座におさまり、前作から30年後では、人と人工物との恋愛は社会的に認知されたものになっているようです。
現実の世界では第1作以後、たまごっちやAIBOを愛玩する流れがあり、まもなくAIも本格的に導入かと言われている以上、2049のような未来像はむしろ当然かもしれない。
 
 また今回、過去の「大停電」で膨大なデータが破壊、消失されたという設定が加わっています。これがストーリーのうえでは旧レプリ捜索等の障害となっています。
 
 あらゆる情報が検索でたちどころに探し出せる状況というのは、謎解きをメインにする作品にとって(そうでない作品にとっても)、あまり都合がいいとはいえないのではないでしょうか。物語の面白さって、謎を解きあかす過程がナンボですからね。これからのエンタメ作品には「大停電」みたいな仕掛けが必要になってくるでしょう。
 
 また主人公の立場の反転も、前作との差異を感じます。第1作は逃亡レプリを追うデッカードは疑いなく正義の立場にありました。
 2049の主人公Kは、所属する組織やウォレル社から追われる身となり、主人公の側に立つ僕ら観客の目線もしぜんと反社会的立場になります。いったいどちらが正しいのか、新たなブレランには絶対的な正義の不在というテーマもあるようです。
 
 今回の2049を観てしまうと、第1作のブレランBSFだったのだなあとあらためて思います。けして、けなしているわけではなく、B級テイストSFの傑作だったという意味で。
 前作はデッカードとレプリの追っかけが話のメインで、移植された記憶とかアンドロイドとの恋愛は、いわば「味つけ」だったといってもいいでしょう。
公開当初はそれまでの正統派SFと比較され、評価も高いとはいえなかった『ブレードランナー』、観た人のあいだで「これはスゴイ」と噂が広がり、しだいにカルト的人気を獲得していったのです。
 
 ファンのあいだでは「デッカード=レプリ説」というのもまことしやかに言われてますが、どうやら製作側にはそういう意図はないようです。なのでこの「俗説」に惑わされながら今度の2049を観ると、話がこんがらがるおそれがあります。
 
 ともかく今回の2049は、ブレランの設定だけ借りた、まったく別作品と考えたほうがいいでしょう。エンタメとしてはやや地味で、特にドギモを抜く新奇な仕掛けやアイデアもそれほどない。そのぶん大人の鑑賞に耐える作品になっているのではないでしょうか。
 
 自分が●●ではなく、ただのレプリに過ぎないと知ったKの絶望や自己への幻滅感は、身につまされるひともいるでしょう。ある程度、人生経験を経ると、誰しも自分の出自に応じた限界、自分がたいした存在でなかったことを否応なしに認めざるをえない、そんな瞬間があると思います。
 
そんな心情を物語のキモに据えた2049は、第1作よりも成熟したオトナ向けのエンタメに仕上がっている印象です。やはり前作からの35年という月日は重いですね。プレスリーやモンローの映像とか昔ながらの大型ジュークボックスといった見え見えのレトロ趣味も、わりと高めの年齢層を狙っているのではないかと。
 
 残念だったのは後半、父親探し的なストーリーに収束してしまったこと。あれだけ壮大な世界観を構築しながら、小さな話でまとまってしまった気がします。
 悪のラスボス、ウォレスも中途半端に退場してしまうし、反乱を企てるレプリ集団のエピソードも尻切れトンボな感じです。僕は最後のクライマックスにレプリの一斉蜂起が用意されてるのではと思ってましたが見当はずれでした。なので、3時間という長尺でももの足りないような気がしたのです。
もっとも、あの流れで最後、そういうスぺクタルな展開になるのも「ちがうだろー」という感じですが。
もしかしたら続編がまだあるのかもしれませんね。なかなか全貌をあらわにしない、ブレードランナーは深い作品です。