blog-chronicle〈ブロニクル〉

あちこちのブログ、HPに書きちらかしたエントリを一本化。

マジックリアリズムの試み

 4/1が終わり4/2が始まるまでの「あわい」のような時間帯。限界まで尿が溜まり仕方なくトイレへ。自分の意志ではないが起きだすことにする。何かしなければという意欲も切迫感もないが。がんばってみたところでタカが知れてる。

 昨日はそれほど疲れていなかったせいか夜もずっと起きてたが、これといったこともせずだらだらツイッター眺めたりひたすらテレビの難病と闘う人たちのスペシャルを見ていた。わりと素直に同情しながら見てしまった。

 疲れていなかったわりに深夜が近づくころ自然に眠くなる。まあこれが自然な体のリズムというものだろう。生まれて食べて眠って死ぬ。本来人間はそれだけでいいのかもしれない。あと子孫を残せば。あとの文化や文明、金儲けみたいなことは、みなプラスアルファというか、おまけみたいなものなんだろう生きるうえで。俺はそのおまけのほうばかり重要視しすぎた感じだ。もっと本質的なことを見失ってると自分でも思う。

 この3枚小説のきっかけとなった『書きあぐねている人のための小説入門』を書いた保坂和志の本『明け方の猫』の二つ目に収録されている短編「揺籃」を読む。現在と過去、真実と虚構がシームレスに入り混じる。話は逸脱を繰り返す。読んだことはないけれどマジックリアリズムってこういう感じだろうか。この3枚小説もこんなテイストでやってみようかと思った。ストーリーもヤマもオチもなくだらだらと書き連ねるこの文章に相応しい形式かもしれない。

 4月に入った。新学期だの新入社だのとニュースがひたすら叫びたてる。べつにこっちは関係ないのだけれど。日々なんの進展もなく停滞した日常を送っていると感じる人間には、不快な、面白くないものだ。ニートとか引きこもりとか失業中とか、そういう連中を通り魔のような凶行へはしらせる引き金の役を果たしそうな報道だ。

 高揚した調子でカメラに向かって新社会人の抱負を語る真新しいスーツの若者。将来彼のパートナーに約束されていそうなOLスタイルの娘。アオキのスーツのCMに出てるモデルのコピーがそこらじゅうに増殖する。

 「揺籃」タッチはいざやってみると案外むずかしい。一本の糸につながって次々とエピソードが出てくるようなものではない。やはり小説とは産みの苦しみにウンウン唸りながら書かなければならないもののようだ。自由連想的に勝手に手が動いて自動書記のように文字が並んでいく。そういうのは書いてて気持ちいい。読む側はつまらないらしいけど。

 自由に書く快感は米満講座でだいぶ失われた。あの講座で教えることがただひとつの正解ではない。一文33字を守ってる文章なんて世の中にどれだけあるか。それはちゃんとした文章が書けないシロートさんを矯正するギブスのようなものであって。しろーとはびこって困るよなー、長いこと書いてきた人間には。ここらで少しフルイにかけないと。ってな考えなんだろう米満も。おいおい一緒にされちゃ困るぜ。むしろヤツの教えを反面教師的に受け止めてそこから自分のスタイルを確立すべきかもしれない。受講した人間で将来にわたって一文33字を続けるヤツがどれだけいると思う? かえってそんなやつはダメだと思うけど。そういう俺自身だって目クソ鼻クソ、どんぐりの背競べというやつか。まさにリアルな『ハウ・トゥ・イー・ア・ライター』だ。あの作品も虚実入りまぜた俺にしては実験的試みであったが。完成をみなかった。むしろこうした3枚小説みたいなトレーニングを積んだうえでああいった手法に挑戦すればよかったのかもしれない。虚実おりまぜる修練を積んだあとで。

 とにかく必要なのは発表の場、書いたものを金に換えられる市場的機能を持つ場だ。市場では金品の交換というコミュニケーションが行われなければならない。一方的にネットに書いているだけではモノローグ同然だ。

 そういうコミュニケーションの場へ誰も入れてくれないようなら自分で作る。口だけじゃなくやってみる。小説が運動なら書いたものを世に出すための運動も必要だ。手をこまねいてるうちにずいぶん時間をムダにしてしまった。

 マジックリアリズムはひとつの可能性だ。現在。そこから触発される過去。いつか見た映画の一場面。誰かのいった言葉。それらが一緒くたに、、完全に融合もせず、ひとつの塊りをなしている状態。それが自分というものかもしれない。