2. 保坂和志の本
まだ未明だ。日付け的な意味よりも眠りをはさんで意識が分断されればそこで1日の変わり目だ。
さっき新聞配達のバイクが通り過ぎ、その後ずっと静寂が続いている。精神統一できる時間がやはりものを書くには必要だろう。
自分の気持ちがどこにあるのか。手探りで確かめようとしている感じだ。どうでもいいような日常を送っていると自分の感情がどこかへ行ってしまう。そして気持ちは保坂和志の本について書く方向へ半ば意識的に向かおうとしている。
この「1日3枚小説」を始めるきっかけとなった保坂和志『書きあぐねている人のための小説入門』は久しぶりに目からウロコが落ちた本だった。
長く小説を書くことについて努力し続け、それなりに方法論も自己流で編み出してきたつもりだった。だが現実にはいつまでたっても書いたものは日の目をみそうにない。
そんな自分がふとしたきっかけでこの本を開くことになった。一読してみて意見を同じくするところも多かったが、意外に思える著者との考え方の相違も少なくなかった。
ストーリーも結末も決めずに流れにまかせて書いていく小説手法。やはりエンターティメントとは発想がちがう。何よりも小説は運動だ。読み手は結末で読み始める前とは異なる場所へ連れていかれなければならない。風景を描くことの大切さも強調する。わかりにくい表現でも、どこでケリをつけてもいいという。
今まで自分でやってきたことに疑いをつきつけられる反面、新たな可能性も感じさせた。この本に書いてある通りにやってみようと思わせた。
書きかけで頓挫している作品『ナイトワークス』再開のヒントになるかもしれない。あるいは全面的に書き直しになるかもだが。それはできればごめんこうむりたい。
あの話だって一歩まちがえれば単なるエンタメの定型だ。少なくともある人々にはそうとしか受け取られないだろう。書いた本人がいくらその独自性を訴えても。訴えるほどその主張は「自己意識の肥大」と解釈される。
ネット上にあふれた「肥大したエゴ」。
そうだ。小説なんかエゴのかたまりでしかないのかもしれない。チラシの裏にでも書いてろって米光ならいいそうだな。
まあ、あの講座に通わなければ、この保坂本にも出合わなかったわけで、自分にとってはシビアな場所だが、得るものもないわけじゃない。
たしかに書いてて楽しいだけじゃ一人よがりに陥りがちだ。しかし自分ではどこが悪いのか判らない。やはり第三者の目は必要だろう。それが公平に思えなくても。
まあ、他の受講生がこの保坂本をはじめとした一連の講義内容からどれだけのものを吸収するか、今後ライターとして大成できるかは興味のあるとこだ。そこまで本気のヤツはそう多くないんじゃないか。受講料9万なんて、ヤツらにははした金だろうし。
俺には金も時間も重要だ。その有限性をありありと感じている。いままでの人生振り返って、50年もかけてこんなもんか、この程度のことしかできなかったのかと痛感する。さらに今後どれだけ新しいものを吸収できるのか。
なにか新しく始めるのは簡単だ。それが身について自分の一部になるには時間がかかる。新しいことにまったく挑戦しないいわけではないが、できればこれまで得た経験や知識を大事にしてさらに発展させたい。それがここ数年のスタンスだ。
新しいものに手をつけるよりは、これまで溜めこんできた膨大な蓄積に目を向けるべきではないか。それらのほとんどはけして消化され自分の血や肉になっているとはいえない。ただ、膨大な蓄積としてそこにあるだけだ。
この塊りを噛み砕きつつ自分の中へ吸収して別の形で吐き出す。これもひとつの「運動」だろう。塊りが少しでも消化されれば、新たなものが吸収できるだろう。
1. エクササイズ
保坂和志の本に1日3枚ずつ書くとあった。
村上春樹も書くことがなくても毎日机に向かうと言っていた。
ストーリーも決めず、オチも考えなければできそうではないか。
1回で完結か、書き継いで長編になるかどうかはわからない。
1日3枚。1年続ければ約1000枚。ゆうに長編2冊分の量になる。それだけ書けばかなりの実力がつくだろう。
ただし日記と大差ないものになりそうだ。小説を意識して書いたほうがよいのだろうけど。
保坂和志の本には「小説を書くとき“小説モード”になるな」とあった。ふだん喋るように書けと。
文体はそれでいくとしても内容はどうしよう。ストーリーもオチもないにしても題材は必要だろう。
当初は現実の生活から拾ってくことになるかもしれない。しかしあくまでフィクションだ。書き続けることで何かが見えてくるかもしれない。それが保坂氏のいう「小説とは運動」なのだろう。
それから「今、現在を書け」みたいな記述もあった。今日は3/11。もう夕方ちかい。
薄暗くなり始めた自室にいる。周辺を本の山と地域新聞の束に囲まれている。目の前のTVではスカパー放映の『ダンシング・チャップリン』が流れている。
コタツに足を突っ込んではいるがスイッチを入れるほど寒くはない。だが空気はひんやりしている。さっきジムでシャワーを浴びたので湯冷めしかけてもいるようだ。
ピアノの音。TV画面では延々とバレエシーン。だけど意識はもうTVのほうを向いていない。早くも「今、ここ」から遊離しかけているのか。
部屋の外で足音。父か母か。もう夕食が近い。昼と夜の入れかわる時間帯。ピアノの音。耳を圧する。液体のように空間を満たす。コタツの天板の上、カリカリと鉛筆の先が当たる音。メモ紙の上に文字が並んでいく。これが「運動」なのか。
運動につれ意識も変わらなければならない。変化はあったか。俺の中に、何か見つかったか。すでにほとんど気持ちはTVにない。これから訪れる夜を考えている。何をするべきか順番を考えている。
足元が冷えてきた。コタツのスイッチを入れよう。
パソコンが修理から戻ってきた。契約再開してから初めて自室でスカパーを見た。1日3枚小説もスタートした。いろいろ動き始めた感じだ。この疲労が心地いい。
メモ紙なので何枚書いたかわからない。だいたいこのへんで3枚きたか。でも3枚までと決めてるわけじゃない。意識が途切れるまで続けよう。意識の途切れた場所、そこが「小説」の結びとなるはずだ。
手書きというのは気持ちをトランス状態にもってきやすいのか。鉛筆を持つ手は動き続ける。保坂氏も本の中で手書きを薦めていた。このあとPCに打ち込むが、その際も追加や削除はなるべく避けたいものだ。
もうほとんどTVの『ダンシング・チャップリンン』は俺の気持ちにない。映画がちょうど終わった。
ライトをつけよう。
ここでいったんパソコンに落としてみよう。どうやらこのへんが今日の結末か。何か「小説」らしいものは書けたか。
気持ちがスローダウンしてきた。少しづつ宙空から降りてくるのを感じる。エンディングテーマとともにTV画面をスタッフロールが流れていく。一変して始まる予告篇。次々と作品の断片。意識は拡散。エクササイズ終わった気分。
二足のわらじの立ち位置
さまざまな職を転々とするかたわら、文章を書いて収入を得るようになって7,8年。
いや、逆か。ライター業をしながら収入を補うためいろんな仕事をしてるというほうが正しいのか。
どっちがメインでどっちがサブなのか。ひとによっては収入の多いほうが正業だというだろう。
だとしたら僕の場合、ライターの仕事は副業にすぎないことになる。
うーん、こちらのスタンスとしてはずっと続けたい本業が書き仕事で、合間にいろいろ、他の職を渡り歩いてる感じなんだけど。
英語でいうならワークとジョブのちがいでしょうか。書くことはライフワーク。ちょっとかっけー(笑)。
1年半ほど続けてきた夜勤のバイトを先日退職した。
それまで昼間はライター仕事であちこち取材(毎日ではないが)、夜はバイトという生活パターン。原稿書くのはバイト終わってから24時間営業のファーストフードやファミレスで、書き終わると明け方ということもしばしばだった。
人の倍はたらいて収入は半分程度って感じだな。
ともかくライター一本では生活に困るので、退職後すぐに次のバイト探しにかかった。不況がつづき就職難といわれるが、選り好みしなければ僕みたいな中高年でもけっこう雇ってくれるところはある。ただ書く方も続けたいので昼は取材などにあてるため夜間の勤務にこだわった。
さいわいスムーズに希望の時間帯の仕事が見つかり、研修が終わればまた満足に眠れない生活に戻る。
今度の職場にそのまま骨をうずめてしまう可能性もないとはいえない。いや年齢を考えたらむしろそうすべきだろう。書くことなんかにこだわらないで。
仕事で書く文章というのは、正直あまり楽しくない。締切はあるし自分の書きたいように書くことは許されないし。当たり前か仕事なんだから。
書くことはあくまで趣味、楽しみとして、せいぜい個人ブログなどに好き勝手なことを書くぐらいで、それでよしと満足するか。
二足のわらじの間で、どちらに重心を置いて立つべきか。どうスタンスをとったらいいか。立ち位置が少し揺らいでいる。
祝!日本アカデミー主演女優賞 『紙の月』
試されるとき。
去年の終わりごろ、世の中を騒がした大事件を再現VTRで振り返る『報道スクープSP』という番組をやっていた。
最近このての再現ドラマもけっこうレベルが高くなってる気がする。ちょっとした映画並みだ。
今回見た中では大阪で起きた三菱銀行立てこもり事件や機長が刺殺されたハイジャック事件、ペルーの日本大使公邸占拠事件などが印象的だった。
当時はただ、ひどい事件だなーぐらいにしか考えていなかったが、再現ドラマを見てあらためて「自分がもしもあの場所にいたら、どんな行動をとっただろう」みたいなことを身につまされて考えてしまった。
いつもと変わらない平凡な日常から、いきなり凶悪犯罪に巻き込まれる。そんなとき、人はどんな行動をとるのか。
大げさに言えばその瞬間、その人は「試されている」のだと思う。
何を試されているのか————自分でもうまく言えないけど強いて言うなら、その人の持つ勇気や決断力、これまで生きてきた人生の知恵や経験、そういったものをすべて含めたその人の全人格が。
生きるか死ぬかの瀬戸際、お前はどう動く?
いきなり現われた運命の神は(そんなものがいるとしたらだが)そう彼らに問いかけたのではないだろうか。
同じようなことは、ずいぶん前に村上春樹の『アンダーグラウンド』を読んだ時も思った。
地下鉄サリン事件の被害者一人ひとりから詳細な聞き書きを行なったこのインタビュー集は、ありふれた日常から突然テロの渦中に投げ込まれた人々が、どう決断し、行動したかを克明に描き出している。
平凡な人々が、こんなにも勇敢になれる。こんなにも気高くなれる。
長い人生の中で何度か、自分の真価を問われる時がある。その時自分は彼らのようになれるだろうか。
三菱銀行で人質になった行員は、犯人に命じられるまま同僚の耳を切り落とした。
ハイジャックされた飛行機の乗客たちはネクタイだけを武器に操縦室の犯人に立ち向かった。
ペルー公邸の人質はラジオ体操やピアノを教えることでゲリラたちと友情を結ぼうと試みた。
そして今年。地下鉄サリン事件からまもなく20年。
怒涛の江戸川乱歩リスペクト②~昭和の逢魔が時、子供たちが出会ったものは・・・
「ぼくはきのうの夕がた、おそろしいものを見たんだよ」~少年探偵団シリーズ「灰色の巨人」より
少年探偵団の舞台となったころの東京の街は、たそがれ時を迎えればきっといまよりも暗く、さびしい風景であったろう。
この世のものではない異形の怪人、怪物が姿を見せるのはそうした夕方から夜にかけて、まさに魔界の門が開く逢魔が時である。
薄暗い街灯がぽつりぽつりと立っているだけの路地、深い神社の森、大きな洋館の影。少し市街地をはずれれば郊外にはまだ住宅も少なく、荒涼とした景色が広がっていたに違いない。
「そのへんは、さびしいやしきまちで、高いへいばかりがつづいています。人どおりもまったくありません。町のところどころに立っている街燈の光が、あたりをぼんやりと、てらしているばかりです」~「灰色の巨人」より
少年探偵団シリーズには「洋館」がよく登場し、たいていそこに住んでいるのは「お金持ちのえらい人」だったりする。典型的な日本家屋に住んでる庶民のガキだった僕は、この「洋館」というやつに憧れたものだった(笑)。
その頃の子供たちは夕暮れが近づくと、遊びもそこそこに家路を急ぐ。あたたかい明かりの灯った玄関をくぐり、夕餉のしたくをするお袋の背中を見てほっとするのである。お袋が着てるのはもちろん白い割烹着ね。ああ、昭和のよき時代。
さて、今はどうだろう。少し薄暗くなればあちらこちらでLEDの鮮明な光が路上を照らし、コンビニの電光看板が数十メートルおきに並んでいる。
子どもたちはべつに帰宅を急がなくとも、買い食いでおなかを満たせるようになった。帰ってみたところで両親は共働きで夜遅くまで不在、茶の間は真っ暗。そんな家に早く帰りたいとは思わないだろう。ゲーセンに寄り道して時間をつぶす。
夜とはいえ真昼のように明るい盛り場。行きかう人々。にぎやかな音楽。若い女性もむかしに較べれば安心して一人歩きできるようになった。
でも暗闇を可能な限り追い払うことははたして正しいのだろうか?
子どものころ、夜の闇がやたらこわかったのは僕だけじゃないだろう。闇への恐怖心は想像力をはぐくむのではないか。
僕らは映画館の闇に身をひそめ、スクリーンにイマジネーションをふくらませる。ホラー・ムービーだって明るい部屋でみたら恐怖も半減だろう。
谷崎潤一郎が礼賛した「陰影」を今の社会は排除しつつある。心の闇も嫌悪され、「ないもの」にされている。でもそれって誰もがひそかに抱えてるだろう。隠ぺいするから出口を失い膨れ上がって、犯罪という形で爆発してしまうんだ。
闇が失われた現代では子供たちの心に想像力も育たないのでは。少年探偵団から話がずれてしまったが、当時の少年たちがあの作品に夢中になったのもそんな「闇のもつ魔力」ではないだろうか。