8. 決戦の土曜日
本格的な春と呼んでもよさそうな土曜日だ。吉川の市民交流センターおあしすは春休みの子どもたちや休日どこへ行くあてもなさそうなオヤジたちでいっぱいだ。
図書館のパソコン室がめずらしく無人。「意識高い系」の人たちは、こんな天気のいい日にはPCに向かうよりもアウトドアで充実した休日を送ることを選ぶのだろう。静かなのでPC打ち込み作業がはかどる。
バスに乗って吉川駅へ向かう。今日は米満講座。
もうほとんど期待も何も抱いていない。それでも受講料として払った9万円が惜しいから出席し続けている。ローンだってこの先まだしばらく払わなきゃならないし。仕事の幅を広げて投下した資本分ぐらいは回収しようと思ったんだけどなあ。
まあ講座で満足できるリターンが得られないのは俺自身にも原因があるだろう。しょせん他人とはうまくやれない人間だ。完全服従するか孤立するか。俺が学習した対人関係はその2パターンしかない。どちらをとるのもイヤだったら他人とはかかわらないようにするしかない。他人が集まる場所へは極力顔を出さないようにするとか。
地元を出るだけで俺にとってはすでにアウェイだ。とくに心の防御を固めてるわけではないんだけど。ありのままの自分を出せない。なぜなんだろう。
新御茶ノ水まで出てきた。ま、いろいろ言いつつ米光講座でもなきゃ都内もめったに出てこないからな。ヘタすりゃ自宅からも一歩も出ないかもしれない。
せっかく街なかまで出てきたのだから、その恩恵に預かりたいもんだが、いざこういう場所へ出てくると萎縮してしまって何もできなくなるのがいつものパターンだ。今日は少し時間に余裕があるのでそのへんをぶらぶらしようか。
ーー遊びたいなあ、と思う。いま、都会まで出てきてるのは遊びじゃないのか。なんか遊びというより苦行ぽくなってる。心の底から楽しめない。本当にしたいことをしていないからだろう。
米光講座もある程度予期していたが、やがり俺に向いた場所ではなかった。逆に言えば自分はどういうものをめざしたいのか少し見えてきた気がする。
自分の行きたいほうへ進めばいい。そこに仲間はいないかもしれないけど。
独りで行くしかない。俺はあまり出会いに恵まれているほうではなかった。それだけは確実に言えそうだ。反面教師はいくらでもいたけれど。
まあ同じレベルの人間が集まるというから、俺のまわりにいるヤツがきっと自分自身のレベルなんだろう。コミュ障、ブルーカラー、低学歴、田舎者。
本当に周囲の人間には失望だ。自分にとってモデルとなる人間をメディア、本や音楽、映像の向こうにいる人物に求めるしかない。ロールモデルとなる人を。それだって虚像にすぎないが。
いっそ自分がそのモデルになっちまえばいい。50年を費やしていろいろ経験して、俺は「ある種の人間」にはなっているはずだ。別人を演じる必要はない。
といっても現実はほとんど演じてばかりいるわけだけど。コンビニの店員やなんやかやを。
若いやつはいくらでも時間があって、これからいくらでも吸収すればいいが、こっちは今までに吸収したもので勝負しなければならない。それはこの先まったく新しいものに目を向けないということではないが。
むしろ蓄えたキャリアや経験、知識では若いのに勝ってるわけで、まあでも置かれてる状況はよくないな。ほんと悪い。いろんな意味で。