たんなるコピーからオンリー・ワンへ。
小学校に入学するかしないかの年ごろの僕に
どうした風の吹きまわしか、親父は「書道」を習わせた。
無論、字の上手な人間に育ってほしいという思いからだったろう。
子どもだった僕は、書道の先生の書いた「お手本」に、
少しでも自分の字を近づけようと懸命に努力した。
でもその努力にも限界がある。人間はコピー複写機じゃないからね。
書道塾通いはほどなく挫折、ダメな自分に当時の僕は失望した。
そんな虎馬があるせいか僕はある程度の年になるまで
物事には必ず「お手本」というものがあり、
自分という不完全な存在を少しでもそれに近づけなければ、という脅迫観念から逃れられなかった。
「自分らしさ」などというものをストレートに表現することには、どうしてもためらいがあった。
いわゆる「書」というやつを見ると、何が書いてあるやら判読不可能なものが多い(失礼)。
おそらく中途で挫折した人間の想像だが、
「手本」をきっちりマスターしたあとでそれを崩し、オリジナリティというやつを獲得していくのだろう。
ビルドゥングス・ロマンの物語で、弟子が師を乗り越えることが重要なモチーフとなるように。
僕はそこまで至らなかったし、きっと書道を勧めた親父だってそこまで望んでいなかったろう。
ひたすら自分を「手本」と寸分の違いもないものに近づけるべき、みたいなのが親父の信条だったに違いない。
それは「個性」重視とは真逆の考え方だ。
自分らしさを殺す…滅私奉公、かつてのサラリーマン社会に合致した思考ではないだろうか。
「個性」などは芸術のような分野に要求されるもので平凡なサラリーマンには不必要、
せいぜい会社が提示する「規格」に自分を上手にあてはめることが至上命令だったんじゃないだろうか。
いまは個性が大事といわれる世の中。「立派なお手本」があまり見当たらない世の中。
そんな時代に何かを手本にしないと自分の生き方さえ定まらない人間は
ミジメな思いばかりする。
もちろんお手本も大切。それを自分流にアレンジしてオンリー・ワンへと成長していくのですね、と
自己啓発本みたいなまとめ。