機会均等、能力不均等。
午前中やってたTBSサンデーモーニング年末SPで
日本の農業、技術開発、被災地や商店街復興などの現場において
これまでのシステムに頼らず新たな活動を始めている人々を紹介していた。
そのなかに大手のメーカーから離れ、インターネットで海外から特殊な機械を取り寄せ、マンションの一室みたいなところで今までになかったような新製品の開発をしている人たちが出てきた。
町工場から出発した創業期のソニーの風景もこんな感じだったのではないだろうか。
以前だったら個人レベルではとても不可能だと思われていたことがインターネット等の発達により、それこそ誰にでもできるような状況になっている。
そう。やろうと思えば。
あとは「やるか、やらないか」だけの差だ。
そのように誰にでも機会が開かれたのはたいへんに喜ばしいことだが
そうなればなったで別の問題も発生する。
たまたま内田樹氏の『街場の現代思想』という本を読んでいたら、能力主義について触れた部分があって
年齢や入社時期、出身大学などで(同じ能力でも)もらう給与に格差ができてしまうことを不服とする人々に対して
「でも、能力だけで給料が決められることになってしまったら、給与の差イコール能力の差ということになってしまい、当人はもっとつらい思いをするのではないか」
という指摘があり、なるほどなーと思ってしまった。
たしかに上司のおぼえがいい、わるいなど評価の基準に曖昧さがあるから、結果として出される考課にもてきとうなボカシがかかり、
期待してたほど高い評価でなかったとしても「まあ仕方ないや、上に見る目がないんだから」と他者に責任転嫁できる。
100%能力のみの評価となったら、その責めはすべて自分自身に向かうわけで、これは当人にはけっこうツラい。うつ病や自殺が増えそうだ。
不正規労働者のなかに失業など貧困状態に陥っても「これは社会が悪いせいではなく自分のせい」と思ってしまう人が多いのもこうした理由だろう。
ネットの発達などでチャンスは万人に与えられている(と、いうことになっている)のに、自分は他人ほどうまくやれていない・・・
そんな気分になったとき、これもすべて自分の(能力不足)のせいと思ってしまうのもシンドイものがある。
あるいは「いや、これは運が悪かったせいなんだ」と、今度は風水や占いに頼ったりしてね。
いや、しょせん「万人にチャンス」なんて幻想にすぎないのかも・・・。